ある心の風景

ここ数日、なんだか感情が抜け落ちて呆けたようになっていたので、これではいけないと、楽しいこととか苦しいこととか、いろいろと思い浮かべてはみたのだけれど、まったくの無駄だった。全てのことに意識的であらなければならないと思うのだが、そのことには常に尋常ならざる困難さが付き纏う。


今日は、久しぶりに重い湿気を帯びた大気から解放され、そのお陰で、高い空を見上げることができる。


金木犀の放つ暴力的なまでに甘美な芳香が、幾筋もの光の柱となって透明な大気を貫き、紺碧の空の果てにまで延びている。その燦めきの残像が破片となって、私のいる場所まで散らばってきていた。

やがて時間が停止したかのように、たゆたうような静寂とともに神々しいまでの黄昏が訪れ、あらゆるものを置き去りにしていき、あらゆるものを奪い去っていく。

その瞬間が見えた気がした。


あー、もしかするとこれは、と思った。


それがなんであるのか了解される一瞬が、すぐ目の前にあるような気がした。仮の世界が落飾したかとさえ思えた。


空へ延びる黄金に輝く光の柱も、道路に塗られた黒々としたアスファルトも、疑うことなく吹く純然たる風の層も、遠い景色を縁取るように見える木々の群れも、そして、それを見て感じている私も、みな同じことなのだと思えた。主体は客体で、主観は客観なのだと。すべてがひとつなのだと感じた。


しかしふと気が付けば、「不可思議を思議してはならない。不可思議は不可思議のままにせよ」と何者かの声が聞こえた。


そう言ったのは他でもなく私自身であった。さっきまで感じていた感覚はどこかに消し飛んでしまい、白昼夢から醒めた自己という主体が、目の前にある客観世界を、いつもと同じように眺めているだけであった。肩すかしを食らったみたいになった私は、やはり呆けたように同じことを呟いていた。


私はあと何回、こんな秋を過ごすことになるのだろうか。
 
 
 

時間は多くの人間よりも速く進む。

いつものようにあんてなを見たら、巡回先のブログが軒並み更新されていたので、「ヒャー」と嬉しい悲鳴などをあげて片っ端からShift+左クリックしてタブを並べて、さあどれから読んでやろうかどれを見てやろうかと身悶えしつつ悩んだ挙げ句に、そのうちのひとつを選んで読んだ。


更新されていたのはカレンダーだけだった。


そして2番目のブログも、3番目も、その次も、更新されていたのはカレンダーだけだった。
 
 
 


窓の外では、真夏の太陽が木々の緑と白い砂浜を浮き彫りにし、青さの濃い空が、果てまで続くように広がっていた。
そして、海もまた輝きながら、なにものかに満たされてそこにあった。


それは永久に続く音楽であり、一瞬のうちに終始する跳躍でもあったのだ。


彼はそんな海辺の大きな病院で、死の床にあった。
身体は既に衰弱していたが、精神はむしろ健在だった。
かつて彼は、人とはは覚悟を決めれば従容と死を受け入れることができるものだと思っていた。


しかしそれは完全に誤りだった。それは、死に直面していない、弛緩した精神状態の作り出した幻影だった。


「生きたい!生きたい!生きるためなら何でもする!お願いだ!」
彼は苦悶した。そして病苦と呼ばれるものの成分を初めて理解した。それはほとんどすべて死への恐怖心であり、なんともし難い死への嫌悪感だったのだ。


そこには「無」とか「存在」とかいう観念の介在する余地はなかった。
ただひたすら全身全霊で、死にたくないということしかなかったから。
神を呪い、神に祈った。


そうして彼は死んだ。彼の祈りは何ほどの意味も成さなかった。長い夢の終わりを迎えたのである。


輝く真夏の海は、いつまでも鳴り止むことはなかった。
 
 
 

六道輪廻のユニヴァース


暗闇から黎明へ、水底から水面へ向けて、意識がゆっくりと浮かび上がる。かすかな底冷えを感じながら、いまだ明けやらぬ夜明け前。

混濁した意識が清明になっていくまでのしばらくのあいだ、ぼんやりと輪廻ということについて考えていた。あるいは無限と永遠ということについて。



まるで芋虫が蛹になり、蛹が蝶になるように、どこまでも続く新しいステージへ、無限の過去から永遠の未来へ向けて輪廻する。永遠の過去世と無限の未来世の六道を終わることなく閲見し、体験し続ける。 永遠のサンサーラ


百歩譲って、そんな輪廻というものがあり得るとしたら、言葉を換えれば無限と永遠というものがあり得るとしたら、死の重さは限りなく軽いものになる。したがって生の重さも限りなく軽いものになる。


現在世、すなわち今この瞬間が輪廻によって大劫の間続くものだとすれば、この瞬間の価値は限りなくゼロに近づく。だってそうだろう。この瞬間は、この瞬間だけだから価値を持つのであって、この瞬間が無限に繰り返され複製されるのであれば、いったいどうしてそこに価値を認めることができるだろう。




すなわち、この生に僅かでも価値を認める者は、無限と永遠を、輪廻の廻転を、認めてはならない。


一回だけの瞬間、一回だけの夜明け前、一回だけの今日、一回だけの生。


くだらなくて取るに足らないゴミのようなこの瞬間に価値を付与するのは、その瞬間が未来永劫一回だけしかあり得ないということ、それだけだ。時間は連続せず、一瞬一瞬がただ過ぎ去るだけだという認識だけである。


業を積み、業火に焼かれる。
恐れることなく、価値のため。






気が付けば、再び朝になっていた。
また一日が始まるのか。
 
 
 

目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

夜闇に向けて窓が開かれており、そこから湿気を帯びた重い空気がゆるゆると流れ込んでいる。その空気は冷たいとも暑いとも付かず、ただ存在だけが外部からの異和として感じられ、そしてそこへ横たわる私に降り注ぐ。


未明に、幾度かの金縛りを体験した。
暗闇の中で、なんとかして手足を動かそうとしても、何かに縛り付けられたように動かず、やがて、もがき疲れた意志に諦念の交じる頃、ふと金縛りが解ける。すると再びまどろみへと引きずり込まれ、また金縛りに遭う。それが何度も繰り返された。自らの意志とは別の意志が、どこからともなく侵入し、自己のものであるはずの己の身体を緊縛する。それはまったく奇妙で滑稽な感覚である。


それは何年ぶりかの体験だった。若い頃は頻繁に体験し、もはや慣れっこになっていたが、ここ数年はあまり体験していなかった。覚醒と睡眠。意志と身体。身体が意志の制御を拒絶するとき。あるいは、金縛りというのは思春期特有の心身の失調と関係があるのかもしれない。

早朝に目覚めてからしばらく、そんなことをぼんやり考え、では、今朝それを久しぶりに体験したのはなぜだったのか、と思った。しかし私にあの頃のような失調が起こっているとも思えない。なにをどう考えても答えが出るはずもなかった。


懈さの残る体を起こし、昨夜から開けておいた掃き出し窓を閉めようと窓際に立ったとき、あるものが私の目に入った。


それは、窓枠のサッシにひしとしがみついた、若いヤブカラシの蔓であった。まるで人間が窓枠に手をかけるように、サッシへ柔らかい手をかけた黄緑色で細い蔓は、放恣なままに伸びるだけ伸びて、夜のうちに開けておいた窓枠にとりつき、さらに自由な空間を求めて、あわよくば私の眠っていた室内へと蔓を伸ばそうと、貪欲にも窺っていたのである。


それを見た瞬間に、私は未明の金縛りの理由が了解されるような気がした。そこに熾烈な意志の存在を認めないわけにはいかなかったからだ。存在への意志。その私のものではない熾烈な意志が、私を射竦めるのは当然のことだ。それは至極、自然なことである。


だから、目覚めよ、意志よ。目覚めよ、身体よ。そして目覚めよ、私よ。
 
 

[妄想]言葉を弾丸に込めたサブマシンガンを小脇に抱え、「パパパパパパパパン!」と並みいる群衆を撃って撃って撃ち倒せ。

 

言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは、朝めし前でなければならない。

と言ったのは、確か寺山修司だっただろうか。しかし誰が言ったかなんてそんなことはどうでもいい。

いま私の手許には撃ち出す弾はなくなり、ただ、硝煙の漂うがごとく徒労と絶望だけが虚空を彷徨っている。とにかく、それが目下の現状なのだ。ネットの世界に対して、撃ち出す弾もジャックナイフも、空虚としか感じられない。なぜなら、それらが言語というツールを経由したコミュニケーションだからだ。








ある瞬間、行為が言語を凌駕する。その瞬間は気が狂いそうになる。言語は行為を規定し、行為を規制する。では言語化し得ない行為はどこに向かえばいいのだろうか。言語的体系から洩れ出る行為というもの、それは確実に存在するのだ。それは例えば…、と語ってしまった時点で、それが言語化されたがゆえに本来の定義から外れ、また言語から洩れてしまう。


至る所で発せられた言葉の背景には、夥しい言語化されなかった行為性が、怨嗟の声を上げているのだ。


言語というジャックナイフ、言葉を弾丸として込めたサブマシンガン。そういうものは、すでにネットで至で用いられているのは周知のことだ。けれど、言語によってではなく行為によってしか発現できない意思こそが、むしろ身体性のジャックナイフやサブマシンを必要としている。


 言語と行為の葛藤というのは、古典的なテーマではあるのかも知れないが、私にとっては(そして誰にとっても)無視できない問題であるはずである。