雨の日には一日中家の中にいて、ずっと雨音を聴いている自由と時間。


ある休みの日の朝に目を覚ますと、窓の外から雨の音が聞こえてきて、「あ、雨だ…」と思い、そして少し憂鬱な気分になる。しかしよく考えてみるとその日は日曜日だから、学校には行かなくてもよいのだということを思い出す。「あー今日は休みだー」と思う。そこで一度起こした身体をまた横たえ、フトンをかぶり直し、そのようにしていられる微かな幸せのようなものを噛み締める。




休みの日の朝の雨を聴く気分というのは、ずっとずっと昔の子供の頃からそういうものだと決まっていたのだが、今日は用事にある日なので、フトンなど引っ剥がし、起きて出掛けなければならなかった。コップ半分の水を飲み、身支度をして、車に乗って雨のパイパスを走ると、車道には高機能舗装と通常舗装の境界がはっきりと見分けられるほどに水しぶきが上がっており、ハイドロプレーニングを起こさないように運転するのが難しかった。






だから親愛なる少年よ。悲しまなくてもいい。


君には、雨の日にフトンの中で幸せを噛み締める自由があるし、走り出す車の中で沈黙している自由がある。セブンイレブンに売っているドトールコーヒーをストローで飲む自由もあるし、地上500mの上空から落ちてきた雨滴が地面へ叩き付けられる音に耳を傾ける自由もある。自由に生きる自由もあるし、自由に生きない自由もある。そうやって生きていることも、ふいに死んでしまうかもしれないことも、ぜんぶ含めた自由がある。


僕らには、そんな自由な時間があるんだよ。たくさんかも知れないし、すこしかも知れない。でも、いま生きているなら、僕らには自由と時間があるんだよ。そして、これからも。