YouTubeの偉大さ

YouTubeの偉大さについては、今さら私ごときがここでどうこう言うまでもないことだろう。しかし、いま現在、youtube.comをつらつらと眺めてみるにつけ、あらためてその偉大さに感嘆せずにはいられない。



YouTubeはそんな気分にさせるだけの膨大な量の動画がユーザーによって日々UPされており、特に音楽系PVは、よほどマニアックな曲でない限りUPされていると言ってよい。

たとえば、いま私が聴いている曲のPVをYouTubeで検索し、
http://www.youtube.com/watch?v=S_-YKfhJ24s
こうやって貼り付けてコメントを付ければ、世界中の人とその音楽を共有しつつ語り合うことすら可能になる。



まだ発展途上とはいえ、YouTubeにおけるような情報発信及び情報享受のありかたは、従来までのそれとは抹茶とコーラぐらい違っている。

その違いを一言で言ってしまえば、これまで壁に遮られて見えなかったものが見られるようになったと言うことである。たとえばこれ。
http://www.youtube.com/watch?v=WJxnSHbaees
上のようなPVを見るために、これまでは時間的な壁、社会的な壁、物理的な壁が高く聳えていた。その壁を越えるには物凄い労力を要するがゆえに、ほとんどの人は途中で諦めていた。


しかしYouTubeは、そのような既存の壁を破壊した。

YouTubeのお陰で、幾重にも壁に囲まれていたレアなPVは、誰でも見られるありふれたPVとなった。


そして、YouTubeがほかのどんな壁より最も過激に破壊した壁、それは著作権の壁である。はっきり言って、YouTube著作権の無法地帯だ。それはコンテンツ制作者の経済的地盤を奪うという新たな問題を生み出すだろう。

似たような現象は、winnyなどのファイル交換ソフトの現場でも起こっている。winnyもまた、既存の壁を有無を言わせず破壊した。個人情報という壁である。


つまり、ネットはそれまで当然あるべきだった壁を破壊したのである。そして現在も加速度的に壁を破壊しつつ拡大している。それが現在のネットスペースの姿である。

高く聳えていた壁が破壊され、人はそれまで見えなかったものが見えるようになり、見られなかったはずの人から見られるようになった。望むと望まぬとに関わらず。



そうして、ネットは人々を幸福にしたのだろうか。



おそらく、ネットユーザーに求められているのは、破壊された既存の壁の修復という、もはや手遅れ感の漂う作業ではなく、全く新しい壁の制作なのだと思う。それがどんな壁になるのか、もちろん私は知らないし、私以外の人もたぶん知らないだろうけど。



だから、YouTubeは偉大である。うん。