夜われ床にありて我心の愛する者をたづねしが尋ねたれども得ず。

余は彼の人を生前より見知れるが如き心持を覚へり。此は予てよりの我が習癖なれども、想う人に懐旧の情に似たる情感を持つ事屡々に及ぶ。或は彼の人の姿形とは余の原形質深くに記憶されたる塵芥が断片の一々に刻まれたりし物なるか。

遠きAttikiの街に彼の人は居りしかど、余は白々と迫り来る虚無に抗ふこともえせずに、其の風景を眺めせし儘なりし。


彼の人、東雲の陋巷に在りて何をか懐ふや。


なれど余は毎朝夢から醒むる間際に彼の人を殺しながら目覚む。故に白昼下にては彼の人と一度たりとも逢ひしことなかりき。
 
 
 
 

銘記せよ、秒速で。


これまで生きてきたということは、すなわち、これまで死を免れてきたということである。そして、そのことはすでにまごうことなき奇跡なのである。それを奇跡ではなく、ただの偶然の重なりに過ぎないというのならば、ではいったい何を奇跡と呼べばよいのか。


いまこのようにして生きて在ること、そのこと自体が奇跡なのであり、それ以外の事項、たとえば幸不幸、あるいは喜怒哀楽、あるいは愛別離苦などは、その奇跡に比べればまったくの些事である。些事であり等しく無意味である。生において生起するすべての物事、それらは等しく無意味で価値がない。幸福も不幸も、喜びも悲しみも、どれも等しく私に生を感覚させるという点において同等である。まとわりつく夥しい幻想を捨て去り、そのことをまず深く認識すべきである。


だから、生の内部には奇跡は存在しない。生の内部に生起する物事はすべて無意味で無価値であるからだ。では奇跡が存在し得るとしたらどこに存在し得るのか。すなわち、生そのものが奇跡である。いまここにこうして在ることが唯一無二の奇跡なのである。その奇跡はなにものにも値しない。その奇跡に値するなにものも他に存在しないからである。
 
 
 

雨の日には一日中家の中にいて、ずっと雨音を聴いている自由と時間。


ある休みの日の朝に目を覚ますと、窓の外から雨の音が聞こえてきて、「あ、雨だ…」と思い、そして少し憂鬱な気分になる。しかしよく考えてみるとその日は日曜日だから、学校には行かなくてもよいのだということを思い出す。「あー今日は休みだー」と思う。そこで一度起こした身体をまた横たえ、フトンをかぶり直し、そのようにしていられる微かな幸せのようなものを噛み締める。




休みの日の朝の雨を聴く気分というのは、ずっとずっと昔の子供の頃からそういうものだと決まっていたのだが、今日は用事にある日なので、フトンなど引っ剥がし、起きて出掛けなければならなかった。コップ半分の水を飲み、身支度をして、車に乗って雨のパイパスを走ると、車道には高機能舗装と通常舗装の境界がはっきりと見分けられるほどに水しぶきが上がっており、ハイドロプレーニングを起こさないように運転するのが難しかった。






だから親愛なる少年よ。悲しまなくてもいい。


君には、雨の日にフトンの中で幸せを噛み締める自由があるし、走り出す車の中で沈黙している自由がある。セブンイレブンに売っているドトールコーヒーをストローで飲む自由もあるし、地上500mの上空から落ちてきた雨滴が地面へ叩き付けられる音に耳を傾ける自由もある。自由に生きる自由もあるし、自由に生きない自由もある。そうやって生きていることも、ふいに死んでしまうかもしれないことも、ぜんぶ含めた自由がある。


僕らには、そんな自由な時間があるんだよ。たくさんかも知れないし、すこしかも知れない。でも、いま生きているなら、僕らには自由と時間があるんだよ。そして、これからも。
 
 
 

このブログはこれからはラーメン食べ歩きブログにするよ。

隣の席の人と肩がぶつかりそうになりつつカウンター席に座ると、すぐさま氷水のグラスが目の前に置かれ、それを横目で見つつ「和風に煮たまご」と注文する。もう慣れた。店内入り口の引き戸のガラスがほとんど唯一の明かり取りである。窓の少ない店内はやや暗いが陰気というわけではない。車が外を通り過ぎる。


カウンターに並ぶおじさんたちが麺を啜る音が聴こえる。息づかいまで聴こえる。声にならない無言の声が聴こえる。まるでブロイラーのように、黙々と首を並べて啜っている。もちろん現代人は皆ブロイラーなのであり、ただ満足したブロイラーと不満足なブロイラーがいるだけだ。


程なくしてラーメンが運ばれる。スープはやや澄んでおり、魚粉が使われている。表面に海苔とねぎと三つ葉がのせられ、叉焼と巨大な煮たまごが熱いスープに浸かっている。スープを啜ると魚介系の香りと強すぎないだしの風味が口中に広がるものだから、あわてて麺を啜ると歯ごたえのある細麺が流れ込んできた。いつだってこの店は同じように美味いんだ。


やがて、満足したブロイラーとなって勘定をすませる。微細なる愉しみ。このようなミクロな生活の愉しみを追求していったならば、いったいどんなところに行き着くというのだろう。飲み残したスープを惜しみつつ店を出た。これが絶望でないのだとすれば、これは幸せというものだ。きっと。
 
 
 

私は海を抱きしめていたい。


日曜日に発作的に海へ行きたくなり、片道2時間強、車を走らせた。
海辺に着くと、もう季節はずれにもかかわらず、休日の午後を海で過ごそうとする人々で賑やかだった。しかし、さすがに泳ごうとする人は見あたらなかった。



海を眺めていると、容赦なく潮風が肺に入ってくる。潮の匂いが鼻を撲つ。目の前には日常生活では目にすることのない、広大な空間の延長がぽっかりと広がっていた。
いつも海に来ると思うのだが、海というのは不思議なものだ。まるで一個の巨大な生き物のようで、それが反復運動を繰り返しながら眼前の殆どすべてを埋め尽くすという光景が、海のない土地で育った私には一種異様な感じがする。


海の青と波の白のコントラストが、永遠の反復を繰り返す。


できることならしばらくの間、此界のすべてを忘れて、この辺の民宿にでも逗留し、毎日、一日中海を眺めていられたら、と思った。


私には別段、これといった夢も希望もないのだが、仮にそんなものがあるとすれば、どこか南の無人島あたりで、一日中海を眺める生活を送ってみたい気もする。


きっとそんな生活には2、3日ですぐ飽きるだろうけど、やがて、飽きることにも飽きて、いつか、まるで海の一部にでもなったように、寄せては返す波の一部にでもなったように、来る日も来る日も延々と反復する日を生きて、生きて、生き続けて、生き尽くして、そうしてついに身体が朽ち果てても、繰り返されるその反復だけが残照として青さに白く残る日を妄想した。
 
 
 
 

だから今こそ枯れぬ眼を晒せ。

永遠の時間が一瞬であるような気がするけれど、一瞬が永遠であったようにも思える。しかし実はそんなのはどちらでもよくて、どちらであってもさしたる違いはない。生は何物にも値しないが、生に値する何物も存在しない。この瞬間は何物にも値しないが、この瞬間に値する何物も存在しない。一瞬と永遠が交錯するのは、まさに今夜この瞬間。だから今こそ悲しみを照らせ。