交換可能性
ずっと以前から、「交換可能性」あるいは「交換不可能性」ということを考え続けてきた。
そして、これからもずっと考え続けることになるのだろう。
車のタイヤがパンクすれば、交換する。
パソコンがクラッシュすれば、交換する。
ある店のサービスに瑕疵があると感じたら次から他の店に、交換する。
雇用した従業員の労働が要求した水準を満たさなかったら違う従業員に、交換すればよい。
現代において提供される物品や役務は、みな交換可能なものばかりである。換言すれば、交換可能性によって満たされたものばかりである。
もちろん厳密に考えれば、この世界にふたつとして同じタイヤはない。同様に、あるパソコンもあるサービスもある労働も、本当は世界にたったひとつしかない。
しかしそれらは、それぞれ既定の目的を達成するために作られ提供されたものであるから、たとえ他のものに交換しても目的さえ達成されれば何の問題もないのである。
車を安全に走らせることができるなら、他のタイヤに交換して何の問題もない。
ネットと文書作成表計算ができるなら、他のパソコンに交換して何の問題もない。
消費者を満足させることができるなら、他の店のサービスに交換して何の問題もない。
会社の収益を上げることができるなら、他の従業員に交換して何の問題もないのだ。
つまり物品や役務が、ある目的のために用いられる手段として見なされたときはじめて、交換可能性という概念が生まれてくる。
そして、この交換可能性という概念を極限まで純化し物象化したものが、貨幣である。
貨幣の目的は、それ自体が別のものと交換されることにある。貨幣とはそれ自体が価値を持つのではなく、交換可能性という目的に特化している点において価値を持つ。貨幣の持つ高度な交換可能性は、この世界で交換可能なもので貨幣と交換できないものは存在しないとさえ言い得るほどである。
そして、貨幣を含むこれら交換可能なものたちがバトンのように流通し交換される場がある。それを市場と呼ぶ。
さて、それでは逆に、交換不可能なものがあるとしたら、それはいったい何であるか。
さっき書いたとおり、物品や役務が、ある目的のために用いられる手段として見なされたときはじめて、交換可能性という概念が生まれてきたとする。
だったら今度は、その逆を考えればよい。
すなわち、いかなる目的のためにも用いられることがなく、何をする手段にもなり得ないもの。それこそが交換不可能なものである。
例えば……。
いやー。それって何だろうな。。。具体的にどんなものがあるだろ…。
他の何ものにも交換不可能なもの。
かけがえのないもの。
ずっと以前から、「交換可能性」あるいは「交換不可能性」ということを考え続けてきた。
きっと、これからもずっと考え続けることになるのだろう。