六道輪廻のユニヴァース


暗闇から黎明へ、水底から水面へ向けて、意識がゆっくりと浮かび上がる。かすかな底冷えを感じながら、いまだ明けやらぬ夜明け前。

混濁した意識が清明になっていくまでのしばらくのあいだ、ぼんやりと輪廻ということについて考えていた。あるいは無限と永遠ということについて。



まるで芋虫が蛹になり、蛹が蝶になるように、どこまでも続く新しいステージへ、無限の過去から永遠の未来へ向けて輪廻する。永遠の過去世と無限の未来世の六道を終わることなく閲見し、体験し続ける。 永遠のサンサーラ


百歩譲って、そんな輪廻というものがあり得るとしたら、言葉を換えれば無限と永遠というものがあり得るとしたら、死の重さは限りなく軽いものになる。したがって生の重さも限りなく軽いものになる。


現在世、すなわち今この瞬間が輪廻によって大劫の間続くものだとすれば、この瞬間の価値は限りなくゼロに近づく。だってそうだろう。この瞬間は、この瞬間だけだから価値を持つのであって、この瞬間が無限に繰り返され複製されるのであれば、いったいどうしてそこに価値を認めることができるだろう。




すなわち、この生に僅かでも価値を認める者は、無限と永遠を、輪廻の廻転を、認めてはならない。


一回だけの瞬間、一回だけの夜明け前、一回だけの今日、一回だけの生。


くだらなくて取るに足らないゴミのようなこの瞬間に価値を付与するのは、その瞬間が未来永劫一回だけしかあり得ないということ、それだけだ。時間は連続せず、一瞬一瞬がただ過ぎ去るだけだという認識だけである。


業を積み、業火に焼かれる。
恐れることなく、価値のため。






気が付けば、再び朝になっていた。
また一日が始まるのか。