コンスタンチノープルの陥落

近頃、ローマ法王の発言が物議を醸しているという。法王が東ローマ帝国皇帝の言葉を引用して、イスラム教を批判したらしい。法王が直接謝罪の言葉を述べる事態にまで発展しているとのことである。
このニュース自体、私にとってはどうでもいいことであるが、これに触発されてふと思い出したことがあった。


私が死ぬまでに一度訪れたい場所、イスタンブルのことである。


そこに行きたいと思い始めたのはいつの頃だったか。中学生の頃だったかもしれない。理由はいっぱいありすぎて全部は書けない。古来東西交易の中心であり、かつエーゲ海黒海の間に位置する海洋都市というロマンチックなイメージに憧れたのが始まりかもしれない。
そんなわけで、イスタンブルについては昔からちょこちょこ情報収集などしてた。





イスタンブルは現在トルコ領となっているが、かつては千年の長きに亘って、東ローマ帝国(ピザンツ帝国)の首都であった。当時その都市は、その創立者ローマ皇帝の名を取って、コンスタンチノーポリス、コンスタンチノープルと呼ばれていたようである。さらにそれ以前の古代には、その街はピザンチンなどと呼ばれていた。


4世紀にローマ帝国が東西に分裂してから、東ローマ帝国は次第に勢力を増し、やがて西ローマがゲルマン人によって滅ぼされると、事実上全ローマ帝国統治権を保つに至る。国教はキリスト教であったが、カトリック正教とは対立するギリシャ正教を宗旨とした。6世紀頃の東ローマ帝国は地中海湾岸を中心に、想像を絶するほど広大な版図を領していた。


やがて東ローマ帝国もまた衰退し、15世紀初めになると帝国の領土はほとんどコンスタンチノーブル周辺を残すだけとなっていた。そして1453年、当時急速に強大化していたイスラム教国であるオスマントルコ帝国の攻略を受けることになる。ローマ帝国側はキリスト教国各国に救援を求めるが、反応は鈍かった。その原因は、おそらく東西正教会の宗派の違いや、交易拠点としての利権を守る価値がかつての大帝都からはすでに失われていたためだろう。


10万のトルコ軍に対し7千というキリスト教混成団は、それでもよく籠城戦を戦った。しかし衆寡敵せず、難攻不落を誇ったコンスタンチノープルも、2ヶ月の籠城の後にトルコ軍の総攻撃によって陥落する。このときローマ皇帝は「私の胸を突いてくれる一人のキリスト教徒もいないのか」と嘆きながら敵兵の中に消えたと伝えられている。


これにより、古代から連綿と続いていたローマ帝国は滅亡した。


オスマントルコ帝国は、すぐに帝都をコンスタンチノープルに遷都した。そこに古代から所在していた東方正教会総主教庁の聖ソフィア大聖堂は、イスラム式のモスクに改修された。





国破れて山河在り。宗教や民族そして国家という凄まじい軋轢と相克のなかで、千年の荘厳も一瞬にして消え去り、今はかつて栄華を誇った都市だけが茫然として、いにしえの繁栄の痕跡を残す。


しばしば思うのだが、歴史つうもんは、いったい何なんだろう。


それはすべて空しいといえば空しいものだが、歴史というのは常にそういうものかもしれない。そして、その下で必死で今を生きている無名無数の人々がいる。私もその中の一人である。


歴史という概念もまた、人の生の価値を根拠づけるものではないのだろうと思う。歴史の中で生起し消滅する無数の生に、歴史の側からの価値の照射はない。そんな人々にとって、歴史というのは必然的に悲劇たらざるを得ない。


そのことを思うとき、すこし切なくなる。





トルコ帝国によってモスクに改修された聖ソフィア大聖堂は、20世紀のトルコ革命後に世俗化され、現在は博物館として公開されている。


一回でいいから行ってみたい。イスタンブル

コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)

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