梁塵秘抄

 釈迦の御法のうちにして、五戒三帰を保たしめ、ひとたび南無といふ人は、花の苑にて道成りぬ

 佛は様々にいませども、まことは一佛なりとかや、薬師も弥陀も釈迦弥勒も、さながら大日とこそ聞け

 佛は常にいませども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ

 弥陀の御顔は秋の月、青蓮の眼は夏の池、四十の歯ぐきは冬の雪、三十二相春の花

 阿弥陀佛の誓願ぞ、かへすがへすも頼もしき、一度御名をとなふれば、佛に成るとぞ説いたまふ

                     巻第二


平安末期に、面白い書物が編纂された。その書物は奇書と言ってもよいかもしれない。そもそも撰者である後白河法皇という人その人が、極めて癖のある人物であった。
源平闘争の世、その渦中に我と我が身を投じ、平家を用い源氏を操り、南都を唆し北嶺を誑す。そんな権謀術数の世界の中で、彼は今様を異常なまでに愛した。


「今様」とは「今風の歌謡」つまり巷で愛唱された流行歌のことである。
天皇上皇あるいは法皇たる者が、流行歌にうつつを抜かすということは、当時でもあり得ないことだった。あってはならぬことだった。前代未聞のことだった。しかるに後白河法皇は、歌の上手が居ると聞けば、その身分の貴賤を問わずそばに召して歌わせた。のみならず、自らも昼夜を問わず歌い、そのため三たび喉を潰したという。後白河法皇は、いわば極度の流行歌マニアであった。


法皇は自らの死後、今様が後世に伝わらなくなるのを心底から惜しんだ。一時の流行とともに一世を風靡し、やがて忘れられてゆく流行歌。そのあまりに命短く儚い歌たちを、なんとか後世に残す手だてはないものか。自分の死後も、この歌たちが人々によって歌い継がれ人々の記憶に残り続ける。法皇は今様が永遠に歌い継がれる世界を強く庶幾していた。


ついに思い立った法皇は、それらの無数の歌たちを、ひとつひとつ丹念に書き留めていくことを決意した。そして歌の歴史や歌い方も忘却されないため、別に口伝十巻を整えて、それらをひとつ残らず記録していくことにした。

その作業は来る日も来る日も、まさに気の遠くなるくらい延々と続けられた。なにしろ巷で歌われる流行歌は、様々な歌詞があり音調があり、一巻に纏めようとしてもなかなか上手くいかなかったからである。


そのころ、都に年老いた白拍子がいた。今様については彼女の右に出るものはいなかった。無数にある歌詞の類型や曲調の違い、歌の背景にある法話や物語について、その年老いた白拍子は訊けば何でも知っていた。後白河法皇は、その老白拍子の話を聞きつけると、すぐに彼女を召し出そうとした。


烏帽子水干の装束、すなわち、男装をした女性のこと白拍子と呼ぶ。もとは神社に仕える巫女の意であるが、時代が経るにつれ巫女という意味は薄れていった。
そして平安の末、白拍子は、女性が烏帽子水干の男装で、今様を歌い、舞を舞い、そして求めに応じて性を売る、そういう職業を指すようになっていた。すなわち芸能人であり売春婦である。そして白拍子は当時、今様を最も熟知した職人であった。彼女らは時の流行歌をいくらでも披露することができた。当時ときめく源義経の妻と言われる静御前白拍子だった。しかし正妻ではない。白拍子と源氏の大将とでは、身分が違いすぎたからであり、義経の正妻は別にいたのである。



年老いた白拍子を召し出すように下命された臣下らは、ついに法皇が乱心されたのではないかと陰口した。下賤の白拍子を廷内に召し出すとは何事であるか。これは前代未聞の珍事である。もはや法皇の御心を忖度することかなわず。


一方、法皇の院に参上するよう命ぜられた老白拍子もまた、これを固辞した。


──私は日本一の今様の歌い手でした。そのことは間違いないと胸を張って言える。神歌も法文歌も古柳も、私より上手に歌い舞える者はいない。しかしそれも今は昔のことです。もはや私はこのように老いさらばえ、姿に見えるのは老醜ばかり。どうして院に参上することができましょう。


しかし上皇の今様に賭ける情熱は、もはや執念であり怨念であった。老白拍子の固辞は上皇の執念と怨念を微動だにさせなかった。法皇に取り憑いたそれは、いったい誰の執念であり怨念であったのか。それは有名無名の人々の、歴史への執念であり怨念であった。一瞬にして消えてしまう今生を、永遠に記憶し記録に残してして欲しいという執念であり怨念であった。


法皇の執念に押された老白拍子は、後白河法皇の院に参上することを竟に了承した。


後白河法皇の発願した今様の集成は難航を極めた。しかし、多忙な政務の傍ら法皇は今様の集成を続けたのである。その傍らには、常にあの老白拍子がいた。その白拍子の過去を知る人は誰もいなかったし、過去を問う人も誰もいなかった。


法皇白拍子に短く質問をする。白拍子が短くそれに答える。その答えを祐筆が書き留める。そうして少しづつ作業が進んでいった。



それは、ある早暁のことだった。



編集作業に疲れ、うたた寝をしていた法皇の耳に、これまで聴いたことのない今様の節が聴こえてきた。目を醒ました法皇が耳を澄ますと、あの老白拍子の声であった。


佛は様々にいませども、まことは一佛なりとかや、薬師も弥陀も釈迦弥勒も、さながら大日とこそ聞け

佛は常にいませども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ


桜花の舞い散る中庭で、老白拍子が歌いつつ舞っていた。法皇の目にした光景は、息を飲む凄絶な光景だった。その老白拍子の姿は、彼女が若かりし頃の姿のままであるように思えた。時間が止まったように、永遠にその光景が続くようにさえ思われた。法皇は言葉も発せずただそれを見つめるばかりだった。



やがて完成した今様の集大成は本編十巻口伝集十巻、「梁塵秘抄」と名付けられた。



現存する「梁塵秘抄」は、叢書「群書類従」にそのごく一部が残っているだけである。