現代人が「占い」の類に求めるものは、自らの思考と判断の停止である。

人の未来や運命など、しょせん誰にも予見することなどできない。
だとすれば、人が未来や運命に向けて巡らす思考に、なんの意味もないし、その思考から導かれた判断に、なんの意味もない。それにも関わらず、人は、自己の希望や不安を未来に向けて投影する。そして、なんとかして自己の未来や運命を、自己の手に握りしめようと願う。だが、そのような願望は叶えられることもあれば、そうでないこともある。


それは当然なのだ。なぜなら、「自己の運命は、自分の手で変えることができる」という考え自体が、根拠のない思い込みだからである。それは人が、自己の運命を自己の手に握っているという誤解から生ずる思い込みである。それは人が、自己の未来を予見できるという誤謬から生ずる思い込みである。「自由」とは、こうした人間の願望が生み出した幻想にすぎない。 そのような「自由」に毒された人間は、自己の未来や運命を変革せんとして、さまざまに思考を巡らせる。 しかし、その行為は実際のところ、運命という圧倒的なものの前では、ほとんど無力だ。未来という不可触のものの前では、人間の巡らす意志や行為などはほとんど無力なのである。


こうして、現実には「思い通りにいかない」運命や未来が存在することを知った人間は、さらに複雑な思考を巡らせる。現在手元にあって参照可能なデータと、自らの未来へ抱く希望や不安を交互に見比べながら。
だが先述したようにこのような行為自体が意味をなさないがゆえに、この行為は完了して果てるということがない。いくら考えたところで、信頼できる答えが出るはずがないからである。そのようなとき、人はいかにして、この意味が無くキリの無い思考を手放すのか?


「占い」とは、人が、こうした思考を手放すためのひとつの手段である。
「占い」には、根拠に基づくいかなる思考も存在しない。ただ判断があるのみである。
根拠と思考なくして判断を下す。それが「占い」である。


「占い」が当たるか否かは問題ではない。人は判断を必要としているのだ。 つまり、運命への思考の停止を必要としているのだ。無意味なる思考の停止。これは人間にとって快楽である。


しかし、人は気付かないのか?
思考なき判断も、無意味な思考に基づく判断も、もたらされる結果は、似たり寄ったりだということを。