いま私は眠りに就こうとしているが

いま、私は眠ろうとしている。その試みは成功することもあるし失敗することもある。いずれにせよ、眠る前に思いついたことを備忘のために書いておく。


明治42年に発表された夏目漱石の小説『それから』には、長井代助というナルシス男が登場する。まあ、主人公と言って差し支えない。

それから (新潮文庫)

それから (新潮文庫)

代助は自分の思考力、認識力というものに絶大な自信を持っており、常にそれを恃みにして生活している。また、彼は資産家の息子であり、定職に就かず遊んで暮らす高等遊民である。そして職業に就くことイコール堕落であると考えている。つまり、社会や人間を高みから観察する「認識者」なのである。


ところで、この作品の冒頭で語られるのだが、代助は、眠る瞬間の自分の意識というものを自分の意識で明瞭に認識したいと願っており、そのために眠ることに何度も失敗する。


当然の話である。


有り体に言って、意識を喪失するのが睡眠であるはずだが、今まさに睡眠に入っていく意識の状態を自己の意識で認識しようとするなら、その意識は決して喪失されてはならない。

失われていく自己の意識を、明瞭な意識をもって認識するということ。それは、その目指すところ自体が矛盾であり分裂であると言うほかない。
『それから』の長井代助が試みているのは、そうしたパラドキシカルな不可能性への空しい挑戦である。



だが、認識する主体と認識される客体、この二つがせめぎ合う場は、なにも入眠の瞬間だけとは限らない。

むしろ意識とは常に、そういうせめぎ合いが繰り広げられている場である。



例えば、一秒前の自己の意識を、今この瞬間に認識しようとしたとしても、一秒前の自己の意識はもはやすでにない。
 バラバラの断片を、過去の経験を元にしてジグソーパズルのように繋ぎ合わせ、考古学的手法で復原された「あのときはきっとこうだったんだろう」みたいな…、記憶と呼ばれる意識の残滓。それが、現在の意識で一秒前の自己の意識を認識しようとして得られるものである。


自己の意識を客体として認識しようとしてこの有様なのだから、況わんや他者の意識をや、だ。


蝶を見ている主体は蝶を見るだけであり、客体としての蝶になることはできない。客体としての蝶と認識する主体のあいだには蔽い難い隔絶が横たわっているのだ。


つまり、認識する主体は、どう足掻いたところで認識される客体を、完全に把握することなどできはしないのである。



漱石の『それから』に遅れること2年後、西田幾多郎の『善の研究』が発表される。



そこには「絶対矛盾的自己同一」などという、訳の分からぬ言葉が出てくる。要は、先述した「認識するものとしての主体」と、「認識されるものとしての客体」、という二元論を超越せんがための試みである。


ちなみに当時、漱石と西田との間の交渉は、ほとんどなかった。にもかかわらず、同時代の巨大な知識人であるこの二人が、共通する問題をほぼ同時に取り上げたということについて考えるなら、「時代の空気」というものの存在を意識しないわけにはいかない。いや、むしろ、ウイリアム・ジェームズが両者を初めとする当時の知識人に与えた影響を意識するべきだろうか。


話が逸れた。


「絶対矛盾の自己同一」。それを体験することを、西田幾多郎は「純粋体験」と呼んだ。そこで説かれているのは、内省や分析を経る以前の、認識と対象が一致した「主客未分」な状態であり、そのような存在のありようである。あらゆる存在の根源は、そうした「主客未分」なものであると西田は言う。そして主観と客観の分離以前を直観することこそが「純粋体験」なるものである。


しかしながらさりながら。


一体そんなものに何の普遍性があるというのだ。それが謎だ。体験とは体験した人間にとってのみ個人的価値を持ち得るものであって、本人以外の他者にとって他人の体験は伝聞以外の意味はないではないか。只管打坐でもアウフヘーベンでも勝手にするがいい。


「解った判った!ユリイカ!」と叫ぶだけで、何が解ったのか説明も検証もできない行為や体験に普遍的価値のあるはずがない。「行為」とはそれを行為した「行為者」に対してのみ恩恵をもたらすだけの代物である。


話を最初に戻す。


『それから』の長井代助が、首尾良く眠りに就くことができる唯一の方法は、おそらく彼が「認識者」であることを止めることである。そのようにして初めて、睡眠すなわち「主客未分」の状態に入ることができる。これを暗示するように、彼は「認識者」としての高等遊民たることを止め、街に職業を探しに行く。まぁ直接の理由は、親から勘当されたからなんだけど。


つまり代助は、「認識者」から「行為者」となったのである。その場面で『それから』は終わっている。



「認識」は普遍性を持ち得るが、「行為」あるいは「体験」はおしなべて個別的であり普遍性を持たない。


だが、「行為」でしか突破できない壁があるとしたらどうか。



例えば…


そう、例えば睡眠とか。





いい加減、支離滅裂になってきたので、寝る。



いや、夜が白々と明けるまで、寝ない。