あなたは今、どこにいますか。

嘗て希望の肯定されし時代がありしかど、既にその時代は去れり。故に汝希望することなかれ。


今夜も地下鉄銀座線は、定刻どおりに浅草駅を発った。そして街の灯が人の顔を瞬時に均等に照らしていった。乗客は、一様に列車の挙動に合わせて体を揺らしていた。そのように慣性モーメントに従属しながら、今日あったこと、明日あるはずのことを思っているようにも見えた。しかし彼らの表情からは、疲れているのか、そうでないのかさえも読み取れなかった。ゆらゆら揺れながら、どこへともなく流されていった。


そうやって日々を暮らす無数の非人称的な人々によって、この得体の知れない日常というものが出来上がっていた。つまり無数の人々の願望や喜び、希望や失望、あるいは怒りや憎しみによって。リゾーム。人々はそのなかで時を過ごし、やがて老いていく。それは、あまりに不毛で盲目的な摩耗のように思えた。


いつの間に駅のホームに怖さを感じなくなったのだろう。暗闇から延びてくるあの長い鉄のレール。せわしなく行き交う見知らぬ人々の群れ。かくして、死について考えを巡らせることさえも、いつの頃からか慣れっこになってしまって、かつての若い頃のような切実さは消え、いずれ、惰性と逃避のための安楽な妄想しか産み出さなくなってしまう。けだし、生についても同様なのだろう。


人は、何かを希望してはその度に裏切られる。しかし希望が叶えられることによってもまた裏切られる。希望が裏切られるのではないかという恐れ、すなわち期待が裏切られるのである。つまり人の希望は必然的に裏切られ、徹底的に裏切られ、裏切られ続け、やがて、裏切られることにも飽き、碁盤の上で微細なゲームを嗜む立派な老耄となる。それが日常というものである。


ジュラルミン製の筐体から人の束が吐き出され、入れ替わりに人が束となって乗り込んでくる。群衆がまるでひとつの意志を持っているかのように動き出す。だけどほんとは意志なんかありはしない。意志はすでに裏切りによって摩耗しつくされているからだ。




私は希望する。あなたが現れるのを。
私は私のこの希望が裏切られることを希望する。あなたが現れないことを。




この人混みの喧噪のなかで、あなたは今も生きているのだろうか?




草加次郎、あなたは今、どこにいますか?