ある一人称のゆらぎ

 
最近、少し気になっていることがある。そのうち誰かが書くと思っていたのだが、どうも書いている人がいないようなので忘れないうちにメモしておく。


それというのは、ある有名ブロガーの表記する一人称が、このところ顕著にゆらいでいるということだ。


例えば次のとおり。(太字は引用者)

あはは、なんかとかネタにされそうだな。
(中略)
ちなみに、は、ひきこもっているわけでもなくよく動きますよ。
 2008-05-06

そして同じ日の別のエントリでは、

世間的にはなんぞはべたな若造にすぎないが、とも言えないか。
 2008-05-06

同ブログを何年か読み続けている一読者として言うと、そのブログでは最近このような一人称のゆらぎが多くなってきていると認識している。具体的にいつから、どれだけ、というデータは示せないのだけれど。
引用を少し続ける。一日前のエントリ。引用枠内は同じエントリ内の文章である。

は自分はバカだと思っているし、恥ずかしい人間だなと思っている。(中略)
は、中学生・高校生のころ、亀井勝一郎もよく読んだ。(中略)
はそう思わない。
 2008-05-05


こうした記述、つまり同一の筆者が同一の時期に書き記したエントリ内で、自己を指す一人称を「俺」「僕」「私」と意識的にまたは無意識的に変化させることは、一体どのような意味を持つのだろうか。


ごく単純に考えれば、それは筆者本人の自己像のゆらぎ、言葉を換えれば社会における位置取りのゆらぎが表出した、という結論になるだろう。


「僕」「俺」「私」とは、どれも現代の一般的な男性の用いる一人称*1ではあるが、それぞれが社会的に異なった位相を持つ一人称である。*2


だからこそ一般的な文章法では、同一のテクスト内では一人称を統一するのが通常なのだ。そうしなければ、筆者の置かれる社会的な位置、もっと言えば読者との関係性がその都度、不安定に変化することになるからだ。その不安定さは読者からすれば、筆者のポジショニングの不安定さ、ひいては文章そのものの不安定さとさえ映るだろう。






しかし、だからといって、私はこの有名ブロガーを非難しようというつもりでは毛頭ない。そうではなくて、この人にして、この歳にして、いまだ自己を社会的に定位できないという不如意をみるのだ。自己と他者が編み出す関係性の不安定さを内面化せざるを得ない不自由さをみるのだ。それは齢五十をすぎてなお、というか過ぎていっそう激しくなってくる。なぜなら彼の一人称のゆらぎは、先述したとおり、ここ最近になって特に顕著となりつつあるからである。その不安定さは、ネットというさらに不安定な人間関係の創出する世界においていっそう加速する。こんな言葉遣いが許されるのはブログだけなのだ。




そして、これらのことは、あれほどまでに培われた学殖を、あたらブログごときに費やすという、無償の消尽めいたこのブロガーの行動の根幹に深く関わっているようにも思われるのだが…。
 
 

*1:wikipedia:日本語の一人称代名詞

*2:なお、ブログにおける一人称に関する考察として秀逸なものとして次のようなものがある。hirax.net::「俺」「僕」「わたし」「私」と「あたし」「わし」::(2003.09.04)http://www.hirax.net/dekirukana7/watashi/