[妄想]言葉を弾丸に込めたサブマシンガンを小脇に抱え、「パパパパパパパパン!」と並みいる群衆を撃って撃って撃ち倒せ。

 

言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは、朝めし前でなければならない。

と言ったのは、確か寺山修司だっただろうか。しかし誰が言ったかなんてそんなことはどうでもいい。

いま私の手許には撃ち出す弾はなくなり、ただ、硝煙の漂うがごとく徒労と絶望だけが虚空を彷徨っている。とにかく、それが目下の現状なのだ。ネットの世界に対して、撃ち出す弾もジャックナイフも、空虚としか感じられない。なぜなら、それらが言語というツールを経由したコミュニケーションだからだ。








ある瞬間、行為が言語を凌駕する。その瞬間は気が狂いそうになる。言語は行為を規定し、行為を規制する。では言語化し得ない行為はどこに向かえばいいのだろうか。言語的体系から洩れ出る行為というもの、それは確実に存在するのだ。それは例えば…、と語ってしまった時点で、それが言語化されたがゆえに本来の定義から外れ、また言語から洩れてしまう。


至る所で発せられた言葉の背景には、夥しい言語化されなかった行為性が、怨嗟の声を上げているのだ。


言語というジャックナイフ、言葉を弾丸として込めたサブマシンガン。そういうものは、すでにネットで至で用いられているのは周知のことだ。けれど、言語によってではなく行為によってしか発現できない意思こそが、むしろ身体性のジャックナイフやサブマシンを必要としている。


 言語と行為の葛藤というのは、古典的なテーマではあるのかも知れないが、私にとっては(そして誰にとっても)無視できない問題であるはずである。