ある心の風景

ここ数日、なんだか感情が抜け落ちて呆けたようになっていたので、これではいけないと、楽しいこととか苦しいこととか、いろいろと思い浮かべてはみたのだけれど、まったくの無駄だった。全てのことに意識的であらなければならないと思うのだが、そのことには常に尋常ならざる困難さが付き纏う。


今日は、久しぶりに重い湿気を帯びた大気から解放され、そのお陰で、高い空を見上げることができる。


金木犀の放つ暴力的なまでに甘美な芳香が、幾筋もの光の柱となって透明な大気を貫き、紺碧の空の果てにまで延びている。その燦めきの残像が破片となって、私のいる場所まで散らばってきていた。

やがて時間が停止したかのように、たゆたうような静寂とともに神々しいまでの黄昏が訪れ、あらゆるものを置き去りにしていき、あらゆるものを奪い去っていく。

その瞬間が見えた気がした。


あー、もしかするとこれは、と思った。


それがなんであるのか了解される一瞬が、すぐ目の前にあるような気がした。仮の世界が落飾したかとさえ思えた。


空へ延びる黄金に輝く光の柱も、道路に塗られた黒々としたアスファルトも、疑うことなく吹く純然たる風の層も、遠い景色を縁取るように見える木々の群れも、そして、それを見て感じている私も、みな同じことなのだと思えた。主体は客体で、主観は客観なのだと。すべてがひとつなのだと感じた。


しかしふと気が付けば、「不可思議を思議してはならない。不可思議は不可思議のままにせよ」と何者かの声が聞こえた。


そう言ったのは他でもなく私自身であった。さっきまで感じていた感覚はどこかに消し飛んでしまい、白昼夢から醒めた自己という主体が、目の前にある客観世界を、いつもと同じように眺めているだけであった。肩すかしを食らったみたいになった私は、やはり呆けたように同じことを呟いていた。


私はあと何回、こんな秋を過ごすことになるのだろうか。