八百比丘尼

昔、真名子の里に朝日長者と呼ばれた夫婦が住んでいた。夫婦には子が無く、2人は庚申様に子が授かるよう祈った。祈りが通じたのか、やがて女の子が産まれた。女の子は八重姫と名付けられた。
姫が七つのとき、長者の邸宅に白髪の老翁が訪れ、長者を自分の家に招いて、ともに庚申様を信心したいと申し出た。長者は訪れた老翁の家で、不老不死の薬だという貝の肉のようなものを勧められたが、肉食を絶っていたので食べるふりをして袂に入れた。家に帰ると、帰りを待っていた八重姫の前に袂から貝の肉が落ち、何も知らない姫はそれを食べてしまう。
やがて十八歳になって美しく成長した八重姫の噂は、遠く都にまで届き、時の崇徳帝は姫を都に召し出そうとする。これを嫌った八重姫は家を出、真名子の里を出てしまう。
いつしか時が経ち、両親と故郷が恋しくなった八重姫は真名子の里に戻るが、故郷には両親はおろか、誰一人として識っている人もいなくなっていた。姫が家を出てから八百年の歳月が経っていたのだった。しかし、山の麓にある池に自らの姿を映して見ると、姫の姿は、いまだ十八歳の頃の姿のままであった。
世を儚んだ姫は出家し、名を妙栄と改め、巡礼の旅に出る。やがて妙栄は若狭国に至り、そこで海に身を投げ、自ら命を絶つ。


これは、真名子の男丸という地区に伝わる八百比丘尼(おびくに)伝説であるが、しかしこの物語は、ここ真名子の専売特許ではなく、北陸地方を中心に日本全国に伝承されている。おそらくこの地域に伝わる物語も、そのバリアントのひとつに過ぎない。

それはともかくとして。

この晴れた休日に、iPodを耳に突っ込んで、真名子まで八百比丘尼堂を見に行く。
こういう場所には、久石譲ピアノ曲がよく似合った。


木立ちに蔽われた小高い丘の中腹に建っている比丘尼堂は、実に拍子抜けするほど他愛のない小さなもので、堂というより祠と言った方が相応しいのではないかと思われる。人里離れているため訪れる人もおらず、ただ傍を流れる小川の音と鳥の鳴き声だけが空に響いている。小さくも清やかな堂の中には、八百比丘尼の姿を写した木像が収められているはずであるが、外からは見えなかった。

近くには八百比丘尼が、八百年を経てなお十八歳のままのの自らの姿を映し見たという、「姿見の池」があった。しかし、なんか、これ、池というか、ただの水溜まり…。昔の人は、こんな他愛のないものにまでイメージを膨らませ、日常性を超えんとする物語を見出していたのだろうか。

比丘尼堂の周りに庚申塔がズラッと並んでいるのを見て、私は「ああ…なるほどね」と思った。それを見た瞬間、この物語のほんとうの意味が分かった気がした。

庚申塔とは、江戸期以前に盛んに行われていた庚申講の記念供養として建立された石碑である。庚申講とは、かつて盛んだった庚申信仰に基づき、旧暦庚申の日に人々が一堂に集まり夜通し起きて語り明かすという習わしである。庚申講は「女衆の講」とも呼ばれ、参加するのは主に女性であった。女性たちはそこで、日常生活の悲しみや喜びや苦しみや楽しみを、夜通し語り明かした。しかし近代に入ると、明治政府が庚申信仰を迷信として排除したため、やがて庚申講も廃れた。

で、なぜ私が庚申塔を見て「なるほど」と独り合点したかというと、これは私の想像に過ぎないのだが、この八百比丘尼の伝説もまた、庚申講の席で無数の女性たちによって語り伝えられた物語なのではないかと思ったからだ。

日常性を超えるイメージを、どうしようもなく他愛なくささやかな日常のなかに見出していくのが物語の生成なのだとすれば、物語を生み育むのはいつも女性であった。神話の時代から、物語とは女性のものだった。
そして、その他愛なくささやかな日常生活のなかで時が過ぎてゆき、やがて花のような若さが失われ、いつしか老いて死んでいくこと。その日常という現実のあらがえなさに対する無名の女性たちの切実な願望とその断念みたいなものが、この物語に結実しているように思われる。

裏手の木立ちの陰で昼なお暗く、閑散として絶えてひと気のない堂の前に佇む。


ふと、いま後ろを振り返ると、八百年間生き続けた比丘尼が十八歳の可憐な姿のまま、そこに凛として立っているような気がして、それを幾百年も語り伝えた無名無数の女性たちの声なき声が、まだ響いているような気がして、しばらく茫然としていた。