カプリース

夏が高らかにその終わりを告げ、雲間からの陽光がもたらしているのだろう余熱と、それに相反し冷涼として通る風が、またもや訪れるはずの季節という反復を想起させる。そして私は、iPodを耳に突っ込んで、相も変わらず縁側に腰掛けたり横たわったりして、その気配が深まりつつある庭を眺めながら、Heifetzが演奏するPaganini 24 Capriceをただひたすら聴いていて、やっぱりこの曲は古人の評するとおり強烈に悪魔的だよなーなどと、ぼんやりとしかし確かに考えていた。Paganiniはその超絶技巧から、悪魔に魂を売り渡した代償としてあの演奏技術を手に入れたと周りから囁かれ、それゆえ、その死後も教会から埋葬を一時拒絶され、彼の遺体は埋葬場所を求め各地を彷徨ったという。それを天才Heifetzが弾く。古色蒼然とした音源には、ときどき何者かが咳をする篭もった音が入っており、それを聴いていた私は急に胸が苦しくなるような焦燥感に襲われ、急いでiPodのイヤフォンを耳から外した。


人が、何かを継続して行っている状態がある。しかし、それは決していつまでも続くものではなく、必ず終わりというものが訪れる。言葉を紡ぐということは、道具としての言葉を操るということでもあるが、それと同時に言葉に操られることでもある。言葉を紡ぐこととは、アモルファスな状態にある形状を付与することであり、言葉を付与される前にはアモルファスであったある状態は、言葉を付与された瞬間に、つまり言語化された瞬間に、確固たる結晶構造を伴って実体化され、ある状態に対して実効的な影響を及ぼし始める。古人の語り伝えた言霊とはそういうものであると思う。本来、言霊とは畏怖すべきものである。かくして人は、言葉を駆使することにより言葉に拘束される。その拘束から逃れるためには、言葉を駆使すること、言葉を紡ぐことをやめなければならない。語ることをやめて沈黙しなければならない。


実のところ、私はもっと他のことをしなければならないのではないかと思いなしている。iPodを聴いたり、ドライブに出掛けたり、来月のスピーチの原稿を書いたり、mixiにログインしたり、そういうこともいいけれども、もっと別のありようがあるのではないかと思っていて、ではそれはなにかと訊かれると答えられない。答えた瞬間に、それは言霊となってこれらのことと同じく私を拘束しにかかるからだ。言霊に操られた亡霊はおのれの埋葬場所を求めてさまよい歩く。それでも雲は悠揚迫らずに、ゆっくりと空を覆っていて、私は、なぜとはなしに泣きたくなってしまった。