青炎抄


夢の切れ目には、いつも大粒の雨がざあざあと音を立てていた。


不意に玄関の戸が開いた音が聴こえたような気がしたので、席を立って出てみると、玄関先に女性が立っていた。私の顔を見ると「久しぶりですね」と言った。「ああ、どうも」つい思わず挨拶をしたが、迂闊なことにその人の顔と名前がどうしても思い出せないことに気付いた。いったい何処の誰だろう。


しかし旧知のような挨拶をしてしまった行き掛かりで、今さら名前を訊くわけにも行かなくなっていた。それに、言われてみれば何となくこの人を昔から知っているような気もしてきた。


「まあ、上がってください」
と促すと、遠慮する風もなく靴を脱いで上がってきた。


ふとその客を見ると、この雨の中を外から来たのに少しもぬれていない。奇妙なことだと思ったが、この世にはそういうこともあるのかも知れない。とりあえず奥に通し、茶などを出してその場を取り繕ったが、実際のところ私は辟易していた。何の話をすればいいのか、皆目分からなかったからである。


「あいにくのお天気で、大変だったでしょう。」


当たり障りのない会話でその場を凌ぎ、あわよくば相手の情報を引き出そうと思った。話しているうちに相手の正体を思い出すかも知れないと思った。


「ここまでずいぶんかかりましたよ」と言う。


「ほう。やっぱり土日は混みますかね。どのくらいかかりましたか。」
私は再びどうでもいいことを問うていた。


「もううんざりするぐらい長く。もっと早く向こうを出ればよかったんですけど。」



いつの間にか雨は上がっていて、綺麗な風がどこからともなく吹きはじめ、森閑とした部屋に冷たい空気の先駆が音もなく過ぎた。その人はしばらく黙っていた。仕方がないので私も黙っていた。


「実は、こちらへお邪魔しようか迷っていたのですよ。あなたが怖がるといけないと思ったので。」



私は急に冷水の底に沈んだような気がした。


「それはどういう意味ですか。」


しかし彼女は私の言葉が聞こえなかったのか、「この辺も随分と変わったよね」と独り言のように言い、目を細めて暗くなり始めた窓の外を眺めていた。よくわからない。そう言われてみれば変わったのかも知れない。遠くから水滴の音が微かに聞こえていた。



ふと気が付くと、向かいに座ったその人は、綿菓子のような毛糸のような白いかたまりを、鋏みたいなものを使ってちぎっては丸めちぎっては丸めしていた。それはそれ自体が重さを持たないようにふわふわしていて、なんとも捉えどころがない。それは次第に数を増していって、やがて青く光る綿毛のようにそこらじゅうに浮遊し始めた。



不思議に思って、「何ですか、それ」と尋ねてみた。



「これは死んだ私の魂よ」と彼女は言った。



その瞬間に、私は、この女とはもう二度と会うことはないだろうと確信し、だからもう少しだけ生きてみようかと思った。