現代人が「占い」の類に求めるものは、自らの思考と判断の停止である。

人の未来や運命など、しょせん誰にも予見することなどできない。
だとすれば、人が未来や運命に向けて巡らす思考に、なんの意味もないし、その思考から導かれた判断に、なんの意味もない。それにも関わらず、人は、自己の希望や不安を未来に向けて投影する。そして、なんとかして自己の未来や運命を、自己の手に握りしめようと願う。だが、そのような願望は叶えられることもあれば、そうでないこともある。


それは当然なのだ。なぜなら、「自己の運命は、自分の手で変えることができる」という考え自体が、根拠のない思い込みだからである。それは人が、自己の運命を自己の手に握っているという誤解から生ずる思い込みである。それは人が、自己の未来を予見できるという誤謬から生ずる思い込みである。「自由」とは、こうした人間の願望が生み出した幻想にすぎない。 そのような「自由」に毒された人間は、自己の未来や運命を変革せんとして、さまざまに思考を巡らせる。 しかし、その行為は実際のところ、運命という圧倒的なものの前では、ほとんど無力だ。未来という不可触のものの前では、人間の巡らす意志や行為などはほとんど無力なのである。


こうして、現実には「思い通りにいかない」運命や未来が存在することを知った人間は、さらに複雑な思考を巡らせる。現在手元にあって参照可能なデータと、自らの未来へ抱く希望や不安を交互に見比べながら。
だが先述したようにこのような行為自体が意味をなさないがゆえに、この行為は完了して果てるということがない。いくら考えたところで、信頼できる答えが出るはずがないからである。そのようなとき、人はいかにして、この意味が無くキリの無い思考を手放すのか?


「占い」とは、人が、こうした思考を手放すためのひとつの手段である。
「占い」には、根拠に基づくいかなる思考も存在しない。ただ判断があるのみである。
根拠と思考なくして判断を下す。それが「占い」である。


「占い」が当たるか否かは問題ではない。人は判断を必要としているのだ。 つまり、運命への思考の停止を必要としているのだ。無意味なる思考の停止。これは人間にとって快楽である。


しかし、人は気付かないのか?
思考なき判断も、無意味な思考に基づく判断も、もたらされる結果は、似たり寄ったりだということを。

梁塵秘抄

 釈迦の御法のうちにして、五戒三帰を保たしめ、ひとたび南無といふ人は、花の苑にて道成りぬ

 佛は様々にいませども、まことは一佛なりとかや、薬師も弥陀も釈迦弥勒も、さながら大日とこそ聞け

 佛は常にいませども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ

 弥陀の御顔は秋の月、青蓮の眼は夏の池、四十の歯ぐきは冬の雪、三十二相春の花

 阿弥陀佛の誓願ぞ、かへすがへすも頼もしき、一度御名をとなふれば、佛に成るとぞ説いたまふ

                     巻第二


平安末期に、面白い書物が編纂された。その書物は奇書と言ってもよいかもしれない。そもそも撰者である後白河法皇という人その人が、極めて癖のある人物であった。
源平闘争の世、その渦中に我と我が身を投じ、平家を用い源氏を操り、南都を唆し北嶺を誑す。そんな権謀術数の世界の中で、彼は今様を異常なまでに愛した。


「今様」とは「今風の歌謡」つまり巷で愛唱された流行歌のことである。
天皇上皇あるいは法皇たる者が、流行歌にうつつを抜かすということは、当時でもあり得ないことだった。あってはならぬことだった。前代未聞のことだった。しかるに後白河法皇は、歌の上手が居ると聞けば、その身分の貴賤を問わずそばに召して歌わせた。のみならず、自らも昼夜を問わず歌い、そのため三たび喉を潰したという。後白河法皇は、いわば極度の流行歌マニアであった。


法皇は自らの死後、今様が後世に伝わらなくなるのを心底から惜しんだ。一時の流行とともに一世を風靡し、やがて忘れられてゆく流行歌。そのあまりに命短く儚い歌たちを、なんとか後世に残す手だてはないものか。自分の死後も、この歌たちが人々によって歌い継がれ人々の記憶に残り続ける。法皇は今様が永遠に歌い継がれる世界を強く庶幾していた。


ついに思い立った法皇は、それらの無数の歌たちを、ひとつひとつ丹念に書き留めていくことを決意した。そして歌の歴史や歌い方も忘却されないため、別に口伝十巻を整えて、それらをひとつ残らず記録していくことにした。

その作業は来る日も来る日も、まさに気の遠くなるくらい延々と続けられた。なにしろ巷で歌われる流行歌は、様々な歌詞があり音調があり、一巻に纏めようとしてもなかなか上手くいかなかったからである。


そのころ、都に年老いた白拍子がいた。今様については彼女の右に出るものはいなかった。無数にある歌詞の類型や曲調の違い、歌の背景にある法話や物語について、その年老いた白拍子は訊けば何でも知っていた。後白河法皇は、その老白拍子の話を聞きつけると、すぐに彼女を召し出そうとした。


烏帽子水干の装束、すなわち、男装をした女性のこと白拍子と呼ぶ。もとは神社に仕える巫女の意であるが、時代が経るにつれ巫女という意味は薄れていった。
そして平安の末、白拍子は、女性が烏帽子水干の男装で、今様を歌い、舞を舞い、そして求めに応じて性を売る、そういう職業を指すようになっていた。すなわち芸能人であり売春婦である。そして白拍子は当時、今様を最も熟知した職人であった。彼女らは時の流行歌をいくらでも披露することができた。当時ときめく源義経の妻と言われる静御前白拍子だった。しかし正妻ではない。白拍子と源氏の大将とでは、身分が違いすぎたからであり、義経の正妻は別にいたのである。



年老いた白拍子を召し出すように下命された臣下らは、ついに法皇が乱心されたのではないかと陰口した。下賤の白拍子を廷内に召し出すとは何事であるか。これは前代未聞の珍事である。もはや法皇の御心を忖度することかなわず。


一方、法皇の院に参上するよう命ぜられた老白拍子もまた、これを固辞した。


──私は日本一の今様の歌い手でした。そのことは間違いないと胸を張って言える。神歌も法文歌も古柳も、私より上手に歌い舞える者はいない。しかしそれも今は昔のことです。もはや私はこのように老いさらばえ、姿に見えるのは老醜ばかり。どうして院に参上することができましょう。


しかし上皇の今様に賭ける情熱は、もはや執念であり怨念であった。老白拍子の固辞は上皇の執念と怨念を微動だにさせなかった。法皇に取り憑いたそれは、いったい誰の執念であり怨念であったのか。それは有名無名の人々の、歴史への執念であり怨念であった。一瞬にして消えてしまう今生を、永遠に記憶し記録に残してして欲しいという執念であり怨念であった。


法皇の執念に押された老白拍子は、後白河法皇の院に参上することを竟に了承した。


後白河法皇の発願した今様の集成は難航を極めた。しかし、多忙な政務の傍ら法皇は今様の集成を続けたのである。その傍らには、常にあの老白拍子がいた。その白拍子の過去を知る人は誰もいなかったし、過去を問う人も誰もいなかった。


法皇白拍子に短く質問をする。白拍子が短くそれに答える。その答えを祐筆が書き留める。そうして少しづつ作業が進んでいった。



それは、ある早暁のことだった。



編集作業に疲れ、うたた寝をしていた法皇の耳に、これまで聴いたことのない今様の節が聴こえてきた。目を醒ました法皇が耳を澄ますと、あの老白拍子の声であった。


佛は様々にいませども、まことは一佛なりとかや、薬師も弥陀も釈迦弥勒も、さながら大日とこそ聞け

佛は常にいませども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ


桜花の舞い散る中庭で、老白拍子が歌いつつ舞っていた。法皇の目にした光景は、息を飲む凄絶な光景だった。その老白拍子の姿は、彼女が若かりし頃の姿のままであるように思えた。時間が止まったように、永遠にその光景が続くようにさえ思われた。法皇は言葉も発せずただそれを見つめるばかりだった。



やがて完成した今様の集大成は本編十巻口伝集十巻、「梁塵秘抄」と名付けられた。



現存する「梁塵秘抄」は、叢書「群書類従」にそのごく一部が残っているだけである。

速やかに地球に降り立つための方法


 地球上へ降り立つのを失敗した。



 まただ。



 今回でもう7度目の失敗である。もううんざりである。あと何回こんなことを繰り返すのだろうか。誰かが俺に烙印を押す前に、自らの手で一生消えない烙印をこれでもかと押してやりたい気分だ。

 STSのバルブを全開にする瞬間が掴めないのが原因なのは自分自身でよく解っているのだが、しかし、制御系バルブは全部フライ・バイ・ワイヤだからタイミングを合わせることは超至難の業なのだ。けれども、ほんとうの問題はそういうことではない。

 失敗の原因は別のところにある。
 他ならぬ俺と俺の精神と俺の身体は、そのことを知りすぎるほど知っている。



 怖い。

 そうだ、怖いのだ。


 「今度こそ上手くやってくれよ」という地上とStationのスタッフたちの無言の声が頭の中に谺して、いつの間にやら気分は酷く混乱し、気を確かに、そう気を確かに持って口蓋をしっかり閉ざしていないと心臓が胸郭から気道を通してまろび出る。目の前に飛び出たそれは突然に晒された外気に驚愕してなお一層に収縮し、その弾みで張り裂けよとばかり一気に膨張する。吐き出された血液は一瞬真っ赤な輝きを見せつつすぐに光を失い、掬う間もなくどこか見えないところへと消えて行ってしまう。そして全身が強張り目の前の風景がどこか遠くのそれであるかのようにどこまでも遠ざかり、手足は糸の切れた操り人形を真似てガクガクと震える。それはもう俺であって俺ですらない。


 そして聞こえる。ひそひそ聞こえる。どこからともなく俺を急かす声が聞こえる。「お前はもう用済みだ」「お前の代わりはどこにでもいる」。たしかに、確かに、俺の代わりはどこにでもいる。私は常に誰かと交換可能な存在なのだから。そうでなくてはならないのだから。



 怖い。


 これは途轍もなく怖い。


 もうどうでもいいじゃないか、こんなこと。
 いっそのこと、気圏に入った瞬間に突入角度を見当違いに誤って、木っ端微塵に砕け散ったなら楽になれるのに、それなのに俺の中の何かがそれを許さない。



 もし仮に俺が、誰よりも速やかに地上に降り立つことができたなら、俺は他の誰でもない俺たり得るのかも知れない。誰かにとって交換不可能な俺になれるのかも知れない。



 いま俺の居る限りのない天空から限りのあるあの地球上へ、速やかに降り立つための、たったひとつの方法。How to それを知るために、ただ生きている。


 ただひたすらに。

俺はセイウチ

俺はあいつなんだ。お前があいつであるように、お前が俺であるように。つまり俺たちはみんな同じなんだ。
見ろよ、豚どもが銃を向けられて跳び惑ってるぜ。逃げ惑う代わりに。


私は泣いているのです。


コーンフレークの上に座ってさ、迎えのバンを待ってるんだ。
社名入りのTシャツ着て、愚かな血の火曜日を。
おまえ。悪ガキだろう?顔がどんどん伸びていってるぜ。
俺はエッグマン。あいつらもエッグマン。I am the walrus.
俺はセイウチ。
ななななんっていい仕事だろう。


市警のお巡りさんが、小さな可愛いお巡りさんの上に乗って行進だ。
見ろよ、あいつら駆けずり回ってるぜ。ルーシーがブッ飛ぶみたいに。


私は泣いているのです。


俺は、泣いている。俺は泣いているんだ。

黄色いカスタードが、死んだ犬の眼から滴り落ちる。



  "I Am The Walrus"
  (John Lennon, Paul McCartney)

どこからか、近所の主婦の甲高い声が聴こえた。やがて配達の軽トラックのエンジン音が去来し、そして遠くを走る幹線道路からは、絶え間ない海鳴りのような喧噪が微かに聴こえる。それは、もう何十年も前から繰り返されてきた光景に違いなかった。ただ私が知らなかっただけなのだ。私の知らないうちに、ここではこんな毎日が来る日も来る日も繰り返されて、これからも繰り返されるのだ。

ここには時間の経過がない。人称も、意思も、希望も、憎しみさえも。


ただあるのは、嘘のように青く高い空であり、アスファルトに斜めから照り返す光線だけだ。ファミレスの看板が長い影を伸ばし、枯れた蔓草がフェンスの金網に干されて囁く。
どこまでも伸びてゆく冷たい光線と鋭い青さの下では、私も彼らもただの光景であり、影絵であり、空虚であり、幻影でしかありえない。
そして、私と彼らはただ見つめる。見つめ続ける。そうすることしかできない。ただ踊る。踊り続ける。笑いながら、泣きながら。

折れるシャーペン


I氏と会うのは20年振りだった。


当時の面影は朧気ながら残っているが、この人がそうだと言われても、そうなのか…としか思えなかった。なにしろ小学校低学年の頃の記憶しかないのだから。今ではすっかり初老となったI氏であった。


当時、I氏の在籍するつくばの研究所へ、家族と一緒に遊びに行ったことがある。
巨大な空間の中に、アーチ状のレールが敷設されており、そこを延々と往復運動する物体を、白衣を着た人々がひたすら見つめていた。小学生だった私には、もちろん何が行われているかよく分からなかったが、それが最新鋭の研究であることは、彼らの真剣な眼差しで感じられた。私の手を引くI氏の顔を見ると、やはり真剣な眼差しで運動体を見つめているのだった。


「あの頃、ご自分のやっている研究がどんな意味を持つのか、よく分かってなかったでしょう?Iさんを含めて、あそこにいた人たちは、みんなそんな顔付きでしたよ。ポカーンとした顔で。」


と、I氏に少し意地悪な質問をしてみた。I氏は苦笑して、


「まあ、そうだな。当時はそんなもんだったよ。研究の意味なんか後から付いてくる人が考えれば良かったんだから。それより私たちは、長く出たシャーペンの芯の先端みたいに、力を入れる方向を間違えるとすぐに折れてしまうようなね、そんな微妙なバランスの中にいたから。失敗だけはできない、ということしか考えてなかったよ。研究の意味なんか考えている余裕なんかなかった。」


私は、I氏の話を聞きながら、時代の最先端を行くというのは、案外そういうことなのかも知れない、と思った。そして私は、もはや折れてしまったシャーペンの芯のような自己の軌跡を慮り、そこにかえって清々しいような空虚さを感じたのだった。

青炎抄


夢の切れ目には、いつも大粒の雨がざあざあと音を立てていた。


不意に玄関の戸が開いた音が聴こえたような気がしたので、席を立って出てみると、玄関先に女性が立っていた。私の顔を見ると「久しぶりですね」と言った。「ああ、どうも」つい思わず挨拶をしたが、迂闊なことにその人の顔と名前がどうしても思い出せないことに気付いた。いったい何処の誰だろう。


しかし旧知のような挨拶をしてしまった行き掛かりで、今さら名前を訊くわけにも行かなくなっていた。それに、言われてみれば何となくこの人を昔から知っているような気もしてきた。


「まあ、上がってください」
と促すと、遠慮する風もなく靴を脱いで上がってきた。


ふとその客を見ると、この雨の中を外から来たのに少しもぬれていない。奇妙なことだと思ったが、この世にはそういうこともあるのかも知れない。とりあえず奥に通し、茶などを出してその場を取り繕ったが、実際のところ私は辟易していた。何の話をすればいいのか、皆目分からなかったからである。


「あいにくのお天気で、大変だったでしょう。」


当たり障りのない会話でその場を凌ぎ、あわよくば相手の情報を引き出そうと思った。話しているうちに相手の正体を思い出すかも知れないと思った。


「ここまでずいぶんかかりましたよ」と言う。


「ほう。やっぱり土日は混みますかね。どのくらいかかりましたか。」
私は再びどうでもいいことを問うていた。


「もううんざりするぐらい長く。もっと早く向こうを出ればよかったんですけど。」



いつの間にか雨は上がっていて、綺麗な風がどこからともなく吹きはじめ、森閑とした部屋に冷たい空気の先駆が音もなく過ぎた。その人はしばらく黙っていた。仕方がないので私も黙っていた。


「実は、こちらへお邪魔しようか迷っていたのですよ。あなたが怖がるといけないと思ったので。」



私は急に冷水の底に沈んだような気がした。


「それはどういう意味ですか。」


しかし彼女は私の言葉が聞こえなかったのか、「この辺も随分と変わったよね」と独り言のように言い、目を細めて暗くなり始めた窓の外を眺めていた。よくわからない。そう言われてみれば変わったのかも知れない。遠くから水滴の音が微かに聞こえていた。



ふと気が付くと、向かいに座ったその人は、綿菓子のような毛糸のような白いかたまりを、鋏みたいなものを使ってちぎっては丸めちぎっては丸めしていた。それはそれ自体が重さを持たないようにふわふわしていて、なんとも捉えどころがない。それは次第に数を増していって、やがて青く光る綿毛のようにそこらじゅうに浮遊し始めた。



不思議に思って、「何ですか、それ」と尋ねてみた。



「これは死んだ私の魂よ」と彼女は言った。



その瞬間に、私は、この女とはもう二度と会うことはないだろうと確信し、だからもう少しだけ生きてみようかと思った。